どうしても零点がとれなかった君に
やあ久しぶり。すっかり返事を書くのを忘れてしまっていた。許してほしい。色々と大変だったんだ。最愛の恋人と別れたり、唯一の育ての親を亡くしたり、おまけに税金がとんでもないことになりやがってね、もう本当に大変だったんだ。
「君は10年後、ひとりぼっちになるよ」と言ったらどんな顔をするだろう。きっと表面的には何にも気にしていないように振る舞うけれど、凄く落ち込むんだろうな。君のことはよくわかっているつもりさ。これだけは断言しておく。君って奴は10年経ってもほとんど何も変わらないんだ。バカは成長しないってあれ、本当のことだったんだよ。
もちろん良いこともあるさ。君はサイレースを飲まずにすむようになる。ヒルナミンも、アモバンもマイスリーも、レキソタンもリチウムも。ベゲタミンは廃盤になるなんて信じられる? 世界は凄いスピードで駆け抜けていくんだ。だから恋人に電話した内容を忘れてしまって泣くこともなくなるよ。薬をたくさん服用するせいで電話の内容をほとんど忘れてしまうのがいまの君の最大の悩みであるはずなんだけど(小さい悩みだね)、君の律儀な恋人は君の願い通り君の電話の内容をノートに書き付けてくれるだろう。だけど気をつけなきゃいけない、君の気を引くため半分は彼女の創作なんだ。でもその瑕疵を差し引いても、君は彼女に感謝すべきだと思う。愛すべきだと思う。ああ君に、一つ良いことを教えてあげる。理由なんかなくても、恋人を抱きしめたってよかったんだよ。
あと言い忘れたけれど親族から紹介してもらったその精神科医はヤブだ。ろくに本も読んでやしないし自分で何かを考えたこともない人間だ。君は二年後そのことを理解して激しく後悔する。それで自分で断薬して大変なことになったり、悪い友人に悪い薬をすすめられて本当に懲りて精神病理学を徹底的に勉強したり、原始仏典を読みあさったりして喜劇と悲劇に往復ビンタされながら何とか君は快復する。ビリヤードみたいな復活劇さ。その執念は大したものだ。愚かでどうしようもない自分のことを君は、それでもどうしても諦めきれないんだ。いま思うと君は、自分のことを強烈に嫌うという方向で自分を愛することしかできなかったのだと思う。君は恥ずかしくて死にたくなるかもしれない。だけれど、人間らしい人間って、案外いないもんなんだぜ。
悲しいお知らせばかりで恐縮なんだが自分が無能な人間だという思いは、自分なんて死んでしまった方がいいんだという思いは、薬を飲まなくなっても何もかわらないんだ。君は、自分が無能な人間なまま誰にも恩を返せずに死んでいくことを酷く酷くおそれていて、それが大量服薬のせいで人間性が壊れてしまっているためだと思っていたのだけど、それは実際のところ間違っていて、君のその無力感は君の心の奥底からやってくるものだったんだよ。君自身の絶望が、ただそのまま君の首を絞めているんだ。がっかりしたかい? 実際、僕もこの件についてはがっかりしているんだ。病気がすっかり治ったら本当にナイスな気分になれると思ってたんだからね。病気が治っても君の絶望感はなくならない。それは君の横に太陽みたいに素晴らしい女性がいてもそうなんだ。
ああこれは君がまだ知る由もない情報なんだが、君は25歳の冬、ある女の子と強烈な恋に落ちるんだ。友達のホームパーティーで出会うんだよ。料理を全部作り終えた君はつまらなそうに煙草を吸っててさ、本当は誰かと話したいのに誰にも興味はありませんみたいな顔をしてるのを、その子は瞬時に見抜いてしまうんだ。やれやれ、天才ってのはいるもんだ。
「ねえ、あなたがそんなにつまらなそうにしてるから、私、もうここにいるのつまらないの、ね、どこかにいこうよ」ってセリフを聞く前からずっと、君はその子のことが気になってるんだ。なぜなら1キロ先からでもわかるくらいのとんでもない美人だったんだからね。色とりどりの花束の中にあり、他の花が雑草以下にしか見えなくなるような一輪の花。素敵だけれど、ブーケとしては落第だろう。
その子は背が高くて、絹とガラスを一面にばらまいたみたいに美しい髪の毛と、正しく球形に整えられた真ん丸の瞳を持っていて、君なんかより遙かに頭が良いのに物語の論理構造が理解できなかったり、分数のかけ算が出来ない最高にキュートな人なんだ。でもその認識は本当は誤っていて、理解しないまま何かを受容する特殊な能力の持ち主だったというだけで、そのことを君以外の誰も気づかなかったってことなんだ。君は感動する。彼女が教えてくれる鮮やかな景色に、感情に色があること、心を読み解こうとすることが悪いことではないと初めて知って、そうして二人で過去の君を救うため旅に出ることになる。長い長い旅に。
だけど物語はそう簡単には進行しないんだ。その子には信じる神様がいて、その神様に君は選ばれないんだよ。君にはもっと別な「いい」女の子と生きていくことが約束されていて、相手の女の子も「いい」男と出会い、それぞれの道をそれぞれの別の相手を連れて使命を果たしあうということになっているらしいんだな。本当はその話を聞いたときにすぐ別れたらよかったんだ。でもなかなか諦められなかった君は、散々迷惑をその子にかけて、結果的に、本当にひとりぼっちになる。そのことについてはあまり話したくないな。なんせ、まだ過去にすらなっていないものだから。わかるだろ、僕はいつだってかさぶたを剥がして血まみれになっちゃうような奴だったじゃないか。
ああ少し話を変えようか。君はそう遠くない未来に母親と15年ぶりに再会することになるんだけど、驚くだろうな。君の母親の一族は全員が躁鬱病患者なんだからさ。だから君がリチウムを飲んで血液を抜かれるのも何ら不思議ではなかったわけだ。それから自分の母親に性格と顔が似過ぎていることに落ち込むんだ。ああそして、母親が3回目の再婚をしたところだという話になってね、君が大好きだったおじさんはもうこの世にいないって事をそのときにはじめて知るんだ。いいおじさんだったよな、数えるくらいしか会ったこと無かったけど、本当にいい人って言うのはそれだけでわかるもんだ。
いまの君は何というか本当に酷い奴だけれど、君の彼女は本当にいい子だから大事にしてあげてほしい。でも残念ながら君は1年後、Rと別れることになる。君は家に帰って年を越すあらゆる準備を行って(僕の記憶が間違っていなければ君は一人で暮らしているRの家に転がり込んでいたと思う)Rのことを待っているはずだ。そう。12月31日の夜だ。だけれどいつまでたっても帰ってこなくて夜も明けて3日の夜に電話がかかってきて君はRだと思って「ねえ!どうしてたの?!」と思わず大きな声で叫んでしまうんだが受話器の向こうはRのお母さんで、「娘は実家で療養させますからもう二度と関わらないでください」ってそれだけ言われてRとは連絡が取れなくなってしまうんだ。Rはただの不眠症だと君には言っていたとおもうんだが、本当はかなり酷い鬱と解離性障害を患っていたのさ。原因は母親との不和だったんだが、そいつを解決しようと母親と話をしに言ったが最後、その母親に軟禁されて地元の病院に入院することになってしまうんだ。でも君はそんなことを全く知る由もないからね、酷く打ちひしがれて傷の痛みを忘れるために別の傷を作るみたいに女とセックスばかりして心も体もずたずたになって、それからにっちもさっちもいかなくなって死のうとするんだ。ああだけど死ぬことは出来ない。当然の帰結みたいに。これは最近ある女の人が教えてくれたんだが、どうやら僕たちには「使命」というものあってね、そいつがふわふわ浮き輪になってやがるせいで何度三途の川に飛び込んだとしてもだよ、おぼれることすら出来ないらしいんだね。やれやれさ。もっと救ってやらなきゃならない人なんて星の数ほどいるのだろうに、神様ってのは本当に天邪鬼なんだな。
いや、ここまでひどいことをかいておいてなんなんだが僕は君のことが好きだよ。だからせめて最後くらいは正直でいさせてほしい。ごめん、ここに書いてあることは全部嘘だ。本当であることは、ただ一つ本当であることは、この文章が君に届くと言うことは、僕はすでに自殺を完遂させていて、自動転送システムで電子郵便だけが音も心も光もなく君の古ぼけた端末に届けられているという事実だけだ(僕が仮に生き残ってしまったら、文章は届かないはずだ。だって生き残ったあとのいいわけをするのは、とても心苦しいから。その気持ちを君が、知らないはずはない)。
僕は君に未来を変えてくれと懇願するつもりでこんなことを書いているんじゃない。それは、わかってくれるね? そんなことじゃないんだ。僕は君に強くてニューゲーム式の、順風満帆な素晴らしき日々を過ごしてほしいわけでもない。ただ知ってほしいだけなんだ。なんの意味があるんだ、と君はいうかも知れない。でもそれだけだ。それだけなんだ。君はいままでの自分の人生は全て失敗で、その失敗した人生を何とか取り返そうとしているけれど、してきたけれど、その、君が失敗したと思っている人生だって、君が精一杯生きた時間であることにかわりないのだから。だからどうしろとかそういうことを言うつもりはないんだ。ただ君は生きている。生きていることが何かわからなくてもそれでも生きている。本当はそれで、それだけで満点なんだよ。胸を張れ、誇りを持ちなさい、とは言わない。だけれど、僕は、少なくとも僕は君のことを軽蔑しようとは思わない。それは、本当のことだ。どうやら僕は余計なことを書きすぎたようだ。本当は、ひとこと、たった一言こう書けばよかったのです。「君のこと、ずっと無視してごめんね。絶望しないで。どうか、お元気で」
さよなら
君の名前がピリオドだと知っていたらもっと早く会えたのに
星の夢の終わりに
ピーピーピーピーピーピー
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ音楽だけが鳴り続けているのだと誰かが言っていた。
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ銀河を駆け抜けていく鉄道だけがあるのだと誰かが言っていた。
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ一面、色とりどりの花々が生まれては消えていくのだと誰かが言っていた。
人間が生まれたあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ人間だけがいるのだと誰かが言っていた。
ピーピーピーピーピーピー
僕は、死んだあとに行く世界などなにもないと思っている。
ピーピーピーピーピーピー
真っ暗闇のなかで、声が聞こえた。
むかし、戦争があった。星と星をまたぐ戦争が。
そのころの星々というのはいまみたいに爛々と輝いてなどいなかった。真っ黒に染まり宇宙の各地に点在する太陽から光を余すところ無く吸収し、使いきれないほどの豊かな資源がその星々にすむ生命を余すところ無く幸福にしていた。
夜は世界は真っ黒に染まり昼は空が円形にくり抜かれ、馬鹿みたいにコミカルな風景にお似合いの平和な時代が続いた。しかしすぐに星々の間で自然と国家が生まれ、戦争が勃発した。誰も戦争の本当の理由を知らなかった。最初はたった二つの国が争いはじめた。
戦争は何万年も続き、何世代にも渡り、星を乗り捨てながらも続き、誰も戦争の正確な理由を知らないのに、それでも心の底から彼らは憎み合った。いつしか他の国々も巻き込まれ、宇宙をきれいに均等に割って、最高に幸福な世界で作られた最新鋭の兵器が流れ星の一億倍の密度で宇宙を引き裂きはじめた。さいあくな兵器から放たれる柔らかい光はありとあらゆる原子の結びつきをやさしくほどきゆるやかに溶けていくようになにもかもを海が一瞬で消し飛ぶくらいの暖かさで抱きしめていった。何年間もひかりが世界という世界を埋め尽くした。そうしてひかりが世界の向こう側まで駆け抜けた頃、彼らの住む星々はすべて破壊され、星々は焼かれ生命は砕け引き裂かれただの塵になって記憶をこなごなにふりほどくように歴史を刻んでいった。真っ黒に染まった星々はまだ燃え続けていて、僕たちはそれを見てあるものは願い、あるものは祈り、あるものは心の拠り所にして世界が壊れた瞬間に名前を付けては美しいものだと思いこんでいる。
「ねえ」と誰かが言った。僕は忙しかった。月というのは恐ろしく手間がかかるのだ。一時間に一度は軌道を修正する必要があるし、重力装置を起動しなければ物理法則に違反してしまうのだ。「ちょっとまってくれるかい?」と僕は言って重力装置に火をつけた。煙を肺に染み渡らせてからゆっくりと吐いて、すべてが良好であるのを煙の駆けてゆく速度から理解した。
「君は、どうして月の整備士なんかやってるの?」と待ちきれない様子で声が聞こえた。僕は答えられなかった。気づけばなにもかも、なにもかもを忘れてしまっているのだった。人と話をしたのなんて、いつぶりだろうか。覚えているのは月の動かし方と月の生かし方、そして月の殺し方だけだった。
「月が好きだからさ」と僕は言った。本当のことを言うのが恥ずかしかったのだ。それに僕はずいぶん前に失明してしまっていたから、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
「僕は昔ね、内蔵がすべて溶けて体重が半分になる病気になって死んだんだよ」
「そうか、それはつらかっただろうね」
「ありがとう。でも、なんにもわからなかったから」
本当のことを言わなければならないのなら僕はすべてをすぐにでも白状しなければならなかったのだ。だけれど僕は、ずいぶん前に聴力を完全に失っていたから、どんな顔をしたらいいのかがわからなかった。
「もういいんじゃない」と彼が言った。
「もういいのだろうか」と僕が言った。
そういえばもう身体は、ずいぶん前に失われていたのだということを思い出した。だからどんな顔をしたらいいのかわからなかったんだ。
ああやっぱり、なんにも、なんにもないじゃないか。なんにも、なかった。それだけだったんだ。ああでも、きれいだな。きれいだな。きれいだな。 世界は、きれいだな。
ねえ、君の名前は、なんて言うの?
重力装置だけが、鳴り響いているね。
ピーピーピーピーピーピー
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ音楽だけが鳴り続けているのだと誰かが言っていた。
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ銀河を駆け抜けていく鉄道だけがあるのだと誰かが言っていた。
人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ一面、色とりどりの花々が生まれては消えていくのだと誰かが言っていた。
人間が生まれたあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ人間だけがいるのだと誰かが言っていた。
ピーピーピーピーピーピー
僕は、人間が死んだあとの世界にはそれでも、人間がいるのだと思っている。
ピーピーピーピーピーピー
ピーピーピーピーピーピー
下らない酒をふたりで飲むように
台風のせいだろうか、外では嫌な雨が降っている。迷い雨とでも言ったら良いのか、土砂降りになったり急に止んだりを繰り返している。
僕は今、数式と記号を使って真実とはかけ離れた単純な物語を高校生に教えている。記憶に残れば何でも良いから少々間違った事も教える。学術的には御法度になっている事さえも。その子に必要な事だと判断すれば、何のためらいもなく学問的禁忌を犯す。それがいいことなのかはわからない。ただ薬と暴力と女を使って金を稼ぐよりは幾分かはマシと言うだけなのかもしれない。
今日はずっと仕事場で台風の話題で持ち切りだった。会話の流れをきらないよう適切に相槌を打ちながら、僕は話を聞いていた。人の話を聞くのは簡単だ。話したい事を先回りして理解して、そこに辿り着くようにピリオドをおいていけばいい。それだけのことだ。誰もピリオドの数なんか数えちゃいない。
だけれど雨がどうしたというのだろう。ひとたび土砂降りになってしまえばそれまでのこと、雨粒も洋服も、区別がつかないのだ。いや、雨に限らず世の中の全てのものがそう言う性質を持っているのだけども。幸いにして、或は不幸にして。
あくまで予想に過ぎないんだ、全ての事は。数多くの予想を予報を繰り返して間違えないよう正しく対処しようとする、そう言う人たちはとても美しくて強くて、どこか美しく整えられた建築を連想させる。僕? やめてくれ。それならきっと、お似合いなのはホームレスだ。
だって僕には、帰る場所などないのだから。帰る場所のない人間など、死体と見分けがつかないだろう。顰蹙を買うのが怖くて誰も言わないのだ。真実などそんなものだ。
雨が強く窓に打ち付けられて死に続けている。なす術もなく、ぐしゃぐしゃにつぶれて。
「あなたの話が聞きたい」と言う言葉には、どうやって応えたらいいのだろうか。良い答えを知っている人がいたら誰でも良い、僕にそっと耳打ちしてくれないか。
だけれどもひとつ覚えておいてほしい。最近の僕は本を読む事すら出来ず、何かを考えようとするといつも昔の事が思い出されて酷い気持ちになり、あまつさえ眠気が催されて来て、結局何も考える事が出来ないんだ。それで一体どんな話をしたら良いと言うのだろう。どうやって目の前にいる人の事を楽しませてあげられると言うのだろう。こんな無理難題に応えてくれる人がいたら是非友達になりたい。ああだけどでもきっと、そんなにもいい人と言うのはね、僕となんか友達になってくれるわけがないんだ。
仕方がないから僕はひとりで話し始めることにする。誰も聞く人のいない深夜のツイキャスのように。壁に向かって、目をつむって、強い酒を横において、僕はひとり話し始めることにする。
だから音量は、君が自分で調節してくれ。よろしく頼む。
「こんばんは、黒須です。今日は酷い夜みたいです。ねえ、聞こえますか?」
夏がまだ生きていた頃の話をしよう。それはもう、ずっとずっと昔の物語みたいな気がする。最近はどんなに暖かくても、夏の存在を感じる事は無くなってしまった。いなくなってしまった人間の所有物が淡く透明な像を緩やかに結んでは解いていくみたいに。残り香だけが微かに、その存在を示すかのように。それは全く感情と同じだ。感情は、いつだって遅れてやって来る。
まだ八月だったあの頃はさ、世はなべて事もなし、神は天にいまし、とでも言いたげな平和な時間が流れていたような気がする。世界は圧倒的に夏休みで、自分には何の関係がなくとも世界が3ルクスほど艶やかに粧し込んでいるような焦燥感覚、それが正しいかはわからないけれどその熱と地獄の端みたいな多忙さに追われて僕は何だか幸せな気持ちで毎日を過ごしていたんだ。熱病のけいれん発作なんて言わないでほしい、本当に幸せだったのさ。いままで僕は嘘ばかりついて生きて来たけどこれは本当の話なんだ。
ある朝、僕は酷く憂鬱な気持ちで職場に向かっていた。憂鬱の理由は現実の酷い巡り合わせのせいもあったが、大部分は僕のせいだった。最低な気分だった。人間と言うのは自分に絶望するのが一番辛いものなのさ。ああだけどあの日ばかりは救われたな。明ける直前の夜が一番暗いなんていう、イエス様もびっくり仰天の妄言を信じちゃうくらいにはね。
これは僕が東京を気に入っている唯一の美質といってもいいんだが、都心の一等地というのは緑道歩道並木道、レンガを敷き詰めてオシャレに演出されていてね、それが荒んだ心をほどよくやわらげてくれるんだな。人が傷ついて打ちひしがれる事さえこの都市では織り込み済みなのかもしれない。まあ金の無駄遣いと言ってしまえばそれまでなんだけど、何もかもが無駄だというなら生きている事さえ無駄と言う事になってしまう。だからあれはあれで意味が少しでもあるんだ。だって僕はあの日、今後ずっと忘れられないような美しい景色に出会ったのだから。
駅を降りて喫煙所を抜けて緑道に入ると、お父さんと手をつないだ小さい女の子が向こうから歩いてくるのが見えた。ピンク色のワンピースを着て、赤い靴で、つないだ手をぶんぶん振っていてね、お父さんといるのが楽しくて仕方がないってのが遠くにいる僕にもわかるんだな。
それでちょっとしたらその子が反対側の歩道を散歩しているシベリアンハスキーを見つけたんだ。なにせシベリアンハスキーってのは目につくからね。大きいし、白いし、強そうで、つまり、優しそうでさ。
そしたらその子、「おおきい! おおきいいぬ! ねえおとうさんみておおきいいぬだよ!」って身体を揺り動かしながら弾けるような笑顔を振りまきはじめたんだ。これにはびっくりしちゃったな。散歩のひもを握っていたおじさんもニコニコしちゃってさ、すれ違ってもうずいぶんシベリアンハスキーは遠くに行ってしまってるのにその女の子ときたら、歩きながらたびたび身体をよじって犬の方を見てるんだな。子どもというのはこういうところがあるものだから、たまにまいっちゃうよな。
これがひとりで深夜に見ている映画だったら、僕は間違いなく号泣してただろう。ポテトチップとポップコーンとコーラにまみれて、塩味のする指をしゃぶりながら、すすり泣いてはコーラを飲んで目の奥がツンとする甘い痛みに揺られながら。きっとその日はよく眠れるだろう。次の日の朝の事は考えたくないけどね。僕は美しい映画を見ると決まってその映画が夢に出てくるタイプの人間なんだ。つまり、夢見がちって言うやつなんだろう。まあそれは否定しないよ。でもいいんだ。正義と結婚するような人間には興味がないからね。
ねえ君には聞こえるだろうか。感情が追いついてくる音が。
今年の一月、育ての親が死んだ。老衰と言う事になっている。でも現実は酷いもんだった。「この世界では絶望した人間から死んでいく」と、昔の女が言っていた事を思い出しながら僕は彼女の棺に花を手向けていた。めいいっぱいの花を。色とりどりの花を。僕に美しい忠告をしてくれたその女も、もうこの世にはいないのだ。みんなが泣いていた。でもそれは、ただそこに涙があったと言うだけだ。
言葉だけが、記憶の片隅でかさかさ音を立て続ける。
「あなたのお父さんは本当は作家になりたかったのよ。それも、短編作家に」
「僕には最初から医者になりたかったって言ってたのに」
「そう、でも文才がなかったのよ」
「はは、じゃあ僕に文才がいないのは遺伝ですね」
父の愛人は僕を見て懐かしそうに笑ってそれから、「さようなら」と言った。
僕も「さようなら」と答えた。
とうとう僕も、本当のさようならがわかる人間になってしまったよ。お父さん。
いつまでたってもわからない。僕は何を、話せば良かったのか。
十月のある夜、LINEがやってきた。頭の良い女の人から。軽いノックの音がするかのような文面だった。「あなたの話が聞きたい、」と。何かの間違いかと思ったね。僕は胸が高鳴ったさ。本当はすぐに電話をかけるべきだったんだと思うよ。なにせ僕はその女の人にシンパシーを感じていたんだから。でも一瞬の後、思いとどまった。僕は酷く泥酔していたし、話せる事など何もない。美しいもの高尚なもの、人の気を引くようなものなんか何処を探しても一つもなく、其処に在るのは陰惨な現実と感情の残骸、或は透明な物語。そして酷くみっともない僕の姿と、そんな下らない話を聞かされて酷く困惑するその人の表情だけだった。
ああ端的に言うとね、僕はただの「弱虫」だったんだ。それは本当の事だと思うよ。
透明でも愛して
グッバイ・ハロー
バレリーナ(1)
すこやかな君に捧ぐ
授業中、窓から外を見るのが好きだった。学校プールから少し離れた向こうには神社があって、何百年と続く歴史のせいか、生い茂る木々たちも背が高い。ぼーっと目に映る深く濃い緑を読み解こうとしていると、自分が考えた世界の中に吸い込まれていくみたいだった。僕はそこでかけがえのない友人たちに出会い、伝説の武器を手に入れ、世界の歯車を根底から狂わせている「悪」を倒しにいった。強大な敵と戦う度に僕たちはボロボロになったが、宿屋に泊まればどんなに酷い怪我をしていても関係なかった。それと同じ感じかな、立ちふさがるモンスターたちをやっつけても、そいつらはただ「倒される」だけだった。彼らの亡がらを、少なくとも僕らは見なかった。だから結果、誰の命も奪う事なく世界を平和に導いたんだ。何度も、何度もね。それはそれは素晴らしい冒険だったさ。だけどそれは、外から見たらただサボってる風にしか見えないだろうからね。まあよく先生に怒られた。小学校だったのにね。はじめが肝心、というやつなのかな。
ああでも僕はこの話で君に何かをアピールしたいと言うわけじゃないんだ。よくわからない。本当によくわからない。学校に興味がなかったとか、夢だけは壮大だったとか、友人に飢えていたとか、わかりやすく理解されるそういったことじゃないんだ。もっとぜんぜん別の事を話したいんだよ。どこかへ旅に出ようとした時、地図を手元に置いてその未来の風景を想像するみたいなことはよくあるやね、書かれる前の物語たちの鮮やかな手触りみたいなものかな。そう言った話を思い浮かべてほしい。
ただ、何となく当たり前に存在している世界の横に、全く未知の当たり前に存在する筈だった世界が横たわっていること、とか、迷子になってめちゃくちゃに歩いた筈が目的地への最短距離だったりすること、とか。もしくは、僕らはいとも簡単にもう会えなくなってしまうという現実。それは恋人たちに関することだけではなくて。もっと空間的時間的な意味で、とか。
まあでもこんなことは全部終わりって言うわけ。僕はもうあそこに座って、退屈つぶしに窓から外を眺める事はもう出来なくなってしまった。あの世界に入る鍵は、いつのまにかポケットをすり抜けていたよ。もし君がその鍵を何処かで拾ったら、僕に届けるなんて野暮な事はしなくていい。そんな事は気にしないでくれ。でもどこかで君に会う事があったら、その世界の話を是非聞かせてほしいって僕は思う。ほんとにそう思うよ。