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どうしても零点がとれなかった君に


 やあ久しぶり。すっかり返事を書くのを忘れてしまっていた。許してほしい。色々と大変だったんだ。最愛の恋人と別れたり、唯一の育ての親を亡くしたり、おまけに税金がとんでもないことになりやがってね、もう本当に大変だったんだ。


「君は10年後、ひとりぼっちになるよ」と言ったらどんな顔をするだろう。きっと表面的には何にも気にしていないように振る舞うけれど、凄く落ち込むんだろうな。君のことはよくわかっているつもりさ。これだけは断言しておく。君って奴は10年経ってもほとんど何も変わらないんだ。バカは成長しないってあれ、本当のことだったんだよ。

 

 もちろん良いこともあるさ。君はサイレースを飲まずにすむようになる。ヒルナミンも、アモバンマイスリーも、レキソタンもリチウムも。ベゲタミンは廃盤になるなんて信じられる? 世界は凄いスピードで駆け抜けていくんだ。だから恋人に電話した内容を忘れてしまって泣くこともなくなるよ。薬をたくさん服用するせいで電話の内容をほとんど忘れてしまうのがいまの君の最大の悩みであるはずなんだけど(小さい悩みだね)、君の律儀な恋人は君の願い通り君の電話の内容をノートに書き付けてくれるだろう。だけど気をつけなきゃいけない、君の気を引くため半分は彼女の創作なんだ。でもその瑕疵を差し引いても、君は彼女に感謝すべきだと思う。愛すべきだと思う。ああ君に、一つ良いことを教えてあげる。理由なんかなくても、恋人を抱きしめたってよかったんだよ。

 

 あと言い忘れたけれど親族から紹介してもらったその精神科医はヤブだ。ろくに本も読んでやしないし自分で何かを考えたこともない人間だ。君は二年後そのことを理解して激しく後悔する。それで自分で断薬して大変なことになったり、悪い友人に悪い薬をすすめられて本当に懲りて精神病理学を徹底的に勉強したり、原始仏典を読みあさったりして喜劇と悲劇に往復ビンタされながら何とか君は快復する。ビリヤードみたいな復活劇さ。その執念は大したものだ。愚かでどうしようもない自分のことを君は、それでもどうしても諦めきれないんだ。いま思うと君は、自分のことを強烈に嫌うという方向で自分を愛することしかできなかったのだと思う。君は恥ずかしくて死にたくなるかもしれない。だけれど、人間らしい人間って、案外いないもんなんだぜ。

 

 悲しいお知らせばかりで恐縮なんだが自分が無能な人間だという思いは、自分なんて死んでしまった方がいいんだという思いは、薬を飲まなくなっても何もかわらないんだ。君は、自分が無能な人間なまま誰にも恩を返せずに死んでいくことを酷く酷くおそれていて、それが大量服薬のせいで人間性が壊れてしまっているためだと思っていたのだけど、それは実際のところ間違っていて、君のその無力感は君の心の奥底からやってくるものだったんだよ。君自身の絶望が、ただそのまま君の首を絞めているんだ。がっかりしたかい? 実際、僕もこの件についてはがっかりしているんだ。病気がすっかり治ったら本当にナイスな気分になれると思ってたんだからね。病気が治っても君の絶望感はなくならない。それは君の横に太陽みたいに素晴らしい女性がいてもそうなんだ。


 ああこれは君がまだ知る由もない情報なんだが、君は25歳の冬、ある女の子と強烈な恋に落ちるんだ。友達のホームパーティーで出会うんだよ。料理を全部作り終えた君はつまらなそうに煙草を吸っててさ、本当は誰かと話したいのに誰にも興味はありませんみたいな顔をしてるのを、その子は瞬時に見抜いてしまうんだ。やれやれ、天才ってのはいるもんだ。
「ねえ、あなたがそんなにつまらなそうにしてるから、私、もうここにいるのつまらないの、ね、どこかにいこうよ」ってセリフを聞く前からずっと、君はその子のことが気になってるんだ。なぜなら1キロ先からでもわかるくらいのとんでもない美人だったんだからね。色とりどりの花束の中にあり、他の花が雑草以下にしか見えなくなるような一輪の花。素敵だけれど、ブーケとしては落第だろう。


 その子は背が高くて、絹とガラスを一面にばらまいたみたいに美しい髪の毛と、正しく球形に整えられた真ん丸の瞳を持っていて、君なんかより遙かに頭が良いのに物語の論理構造が理解できなかったり、分数のかけ算が出来ない最高にキュートな人なんだ。でもその認識は本当は誤っていて、理解しないまま何かを受容する特殊な能力の持ち主だったというだけで、そのことを君以外の誰も気づかなかったってことなんだ。君は感動する。彼女が教えてくれる鮮やかな景色に、感情に色があること、心を読み解こうとすることが悪いことではないと初めて知って、そうして二人で過去の君を救うため旅に出ることになる。長い長い旅に。


 だけど物語はそう簡単には進行しないんだ。その子には信じる神様がいて、その神様に君は選ばれないんだよ。君にはもっと別な「いい」女の子と生きていくことが約束されていて、相手の女の子も「いい」男と出会い、それぞれの道をそれぞれの別の相手を連れて使命を果たしあうということになっているらしいんだな。本当はその話を聞いたときにすぐ別れたらよかったんだ。でもなかなか諦められなかった君は、散々迷惑をその子にかけて、結果的に、本当にひとりぼっちになる。そのことについてはあまり話したくないな。なんせ、まだ過去にすらなっていないものだから。わかるだろ、僕はいつだってかさぶたを剥がして血まみれになっちゃうような奴だったじゃないか。


 ああ少し話を変えようか。君はそう遠くない未来に母親と15年ぶりに再会することになるんだけど、驚くだろうな。君の母親の一族は全員が躁鬱病患者なんだからさ。だから君がリチウムを飲んで血液を抜かれるのも何ら不思議ではなかったわけだ。それから自分の母親に性格と顔が似過ぎていることに落ち込むんだ。ああそして、母親が3回目の再婚をしたところだという話になってね、君が大好きだったおじさんはもうこの世にいないって事をそのときにはじめて知るんだ。いいおじさんだったよな、数えるくらいしか会ったこと無かったけど、本当にいい人って言うのはそれだけでわかるもんだ。

 

 いまの君は何というか本当に酷い奴だけれど、君の彼女は本当にいい子だから大事にしてあげてほしい。でも残念ながら君は1年後、Rと別れることになる。君は家に帰って年を越すあらゆる準備を行って(僕の記憶が間違っていなければ君は一人で暮らしているRの家に転がり込んでいたと思う)Rのことを待っているはずだ。そう。12月31日の夜だ。だけれどいつまでたっても帰ってこなくて夜も明けて3日の夜に電話がかかってきて君はRだと思って「ねえ!どうしてたの?!」と思わず大きな声で叫んでしまうんだが受話器の向こうはRのお母さんで、「娘は実家で療養させますからもう二度と関わらないでください」ってそれだけ言われてRとは連絡が取れなくなってしまうんだ。Rはただの不眠症だと君には言っていたとおもうんだが、本当はかなり酷い鬱と解離性障害を患っていたのさ。原因は母親との不和だったんだが、そいつを解決しようと母親と話をしに言ったが最後、その母親に軟禁されて地元の病院に入院することになってしまうんだ。でも君はそんなことを全く知る由もないからね、酷く打ちひしがれて傷の痛みを忘れるために別の傷を作るみたいに女とセックスばかりして心も体もずたずたになって、それからにっちもさっちもいかなくなって死のうとするんだ。ああだけど死ぬことは出来ない。当然の帰結みたいに。これは最近ある女の人が教えてくれたんだが、どうやら僕たちには「使命」というものあってね、そいつがふわふわ浮き輪になってやがるせいで何度三途の川に飛び込んだとしてもだよ、おぼれることすら出来ないらしいんだね。やれやれさ。もっと救ってやらなきゃならない人なんて星の数ほどいるのだろうに、神様ってのは本当に天邪鬼なんだな。

 

 いや、ここまでひどいことをかいておいてなんなんだが僕は君のことが好きだよ。だからせめて最後くらいは正直でいさせてほしい。ごめん、ここに書いてあることは全部嘘だ。本当であることは、ただ一つ本当であることは、この文章が君に届くと言うことは、僕はすでに自殺を完遂させていて、自動転送システムで電子郵便だけが音も心も光もなく君の古ぼけた端末に届けられているという事実だけだ(僕が仮に生き残ってしまったら、文章は届かないはずだ。だって生き残ったあとのいいわけをするのは、とても心苦しいから。その気持ちを君が、知らないはずはない)。

 

 僕は君に未来を変えてくれと懇願するつもりでこんなことを書いているんじゃない。それは、わかってくれるね? そんなことじゃないんだ。僕は君に強くてニューゲーム式の、順風満帆な素晴らしき日々を過ごしてほしいわけでもない。ただ知ってほしいだけなんだ。なんの意味があるんだ、と君はいうかも知れない。でもそれだけだ。それだけなんだ。君はいままでの自分の人生は全て失敗で、その失敗した人生を何とか取り返そうとしているけれど、してきたけれど、その、君が失敗したと思っている人生だって、君が精一杯生きた時間であることにかわりないのだから。だからどうしろとかそういうことを言うつもりはないんだ。ただ君は生きている。生きていることが何かわからなくてもそれでも生きている。本当はそれで、それだけで満点なんだよ。胸を張れ、誇りを持ちなさい、とは言わない。だけれど、僕は、少なくとも僕は君のことを軽蔑しようとは思わない。それは、本当のことだ。どうやら僕は余計なことを書きすぎたようだ。本当は、ひとこと、たった一言こう書けばよかったのです。「君のこと、ずっと無視してごめんね。絶望しないで。どうか、お元気で」

 

  さよなら

 

  君の名前がピリオドだと知っていたらもっと早く会えたのに

 

 

 

 

星の夢の終わりに

 

 

 

 

 

 

 


 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 

 

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ音楽だけが鳴り続けているのだと誰かが言っていた。

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ銀河を駆け抜けていく鉄道だけがあるのだと誰かが言っていた。

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ一面、色とりどりの花々が生まれては消えていくのだと誰かが言っていた。

 

 人間が生まれたあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ人間だけがいるのだと誰かが言っていた。

 

 

 

 

 

 


 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 


 僕は、死んだあとに行く世界などなにもないと思っている。

 

 

 

 

 

 


 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 


 真っ暗闇のなかで、声が聞こえた。

 むかし、戦争があった。星と星をまたぐ戦争が。
 そのころの星々というのはいまみたいに爛々と輝いてなどいなかった。真っ黒に染まり宇宙の各地に点在する太陽から光を余すところ無く吸収し、使いきれないほどの豊かな資源がその星々にすむ生命を余すところ無く幸福にしていた。
 
 夜は世界は真っ黒に染まり昼は空が円形にくり抜かれ、馬鹿みたいにコミカルな風景にお似合いの平和な時代が続いた。しかしすぐに星々の間で自然と国家が生まれ、戦争が勃発した。誰も戦争の本当の理由を知らなかった。最初はたった二つの国が争いはじめた。

 

 戦争は何万年も続き、何世代にも渡り、星を乗り捨てながらも続き、誰も戦争の正確な理由を知らないのに、それでも心の底から彼らは憎み合った。いつしか他の国々も巻き込まれ、宇宙をきれいに均等に割って、最高に幸福な世界で作られた最新鋭の兵器が流れ星の一億倍の密度で宇宙を引き裂きはじめた。さいあくな兵器から放たれる柔らかい光はありとあらゆる原子の結びつきをやさしくほどきゆるやかに溶けていくようになにもかもを海が一瞬で消し飛ぶくらいの暖かさで抱きしめていった。何年間もひかりが世界という世界を埋め尽くした。そうしてひかりが世界の向こう側まで駆け抜けた頃、彼らの住む星々はすべて破壊され、星々は焼かれ生命は砕け引き裂かれただの塵になって記憶をこなごなにふりほどくように歴史を刻んでいった。真っ黒に染まった星々はまだ燃え続けていて、僕たちはそれを見てあるものは願い、あるものは祈り、あるものは心の拠り所にして世界が壊れた瞬間に名前を付けては美しいものだと思いこんでいる。

 

 

  「ねえ」と誰かが言った。僕は忙しかった。月というのは恐ろしく手間がかかるのだ。一時間に一度は軌道を修正する必要があるし、重力装置を起動しなければ物理法則に違反してしまうのだ。「ちょっとまってくれるかい?」と僕は言って重力装置に火をつけた。煙を肺に染み渡らせてからゆっくりと吐いて、すべてが良好であるのを煙の駆けてゆく速度から理解した。

 

  「君は、どうして月の整備士なんかやってるの?」と待ちきれない様子で声が聞こえた。僕は答えられなかった。気づけばなにもかも、なにもかもを忘れてしまっているのだった。人と話をしたのなんて、いつぶりだろうか。覚えているのは月の動かし方と月の生かし方、そして月の殺し方だけだった。

   「月が好きだからさ」と僕は言った。本当のことを言うのが恥ずかしかったのだ。それに僕はずいぶん前に失明してしまっていたから、どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
  「僕は昔ね、内蔵がすべて溶けて体重が半分になる病気になって死んだんだよ」
  「そうか、それはつらかっただろうね」
  「ありがとう。でも、なんにもわからなかったから」
 本当のことを言わなければならないのなら僕はすべてをすぐにでも白状しなければならなかったのだ。だけれど僕は、ずいぶん前に聴力を完全に失っていたから、どんな顔をしたらいいのかがわからなかった。
「もういいんじゃない」と彼が言った。
「もういいのだろうか」と僕が言った。
  そういえばもう身体は、ずいぶん前に失われていたのだということを思い出した。だからどんな顔をしたらいいのかわからなかったんだ。
  ああやっぱり、なんにも、なんにもないじゃないか。なんにも、なかった。それだけだったんだ。ああでも、きれいだな。きれいだな。きれいだな。  世界は、きれいだな。

   ねえ、君の名前は、なんて言うの?

 

 

 

 

 

 

 

  重力装置だけが、鳴り響いているね。 

 

 

 

 

 

 

 


 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ音楽だけが鳴り続けているのだと誰かが言っていた。 

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ銀河を駆け抜けていく鉄道だけがあるのだと誰かが言っていた。

 

 人間が死んだあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ一面、色とりどりの花々が生まれては消えていくのだと誰かが言っていた。

 

 人間が生まれたあとに行く世界にはなにもないのだけれど、ただ人間だけがいるのだと誰かが言っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 


 僕は、人間が死んだあとの世界にはそれでも、人間がいるのだと思っている。

 

 

 

 

 

 


 ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 

 

 

    ピーピーピーピーピーピー

 

 

 

 

 

 

 

下らない酒をふたりで飲むように

 台風のせいだろうか、外では嫌な雨が降っている。迷い雨とでも言ったら良いのか、土砂降りになったり急に止んだりを繰り返している。
 僕は今、数式と記号を使って真実とはかけ離れた単純な物語を高校生に教えている。記憶に残れば何でも良いから少々間違った事も教える。学術的には御法度になっている事さえも。その子に必要な事だと判断すれば、何のためらいもなく学問的禁忌を犯す。それがいいことなのかはわからない。ただ薬と暴力と女を使って金を稼ぐよりは幾分かはマシと言うだけなのかもしれない。
 今日はずっと仕事場で台風の話題で持ち切りだった。会話の流れをきらないよう適切に相槌を打ちながら、僕は話を聞いていた。人の話を聞くのは簡単だ。話したい事を先回りして理解して、そこに辿り着くようにピリオドをおいていけばいい。それだけのことだ。誰もピリオドの数なんか数えちゃいない。
 だけれど雨がどうしたというのだろう。ひとたび土砂降りになってしまえばそれまでのこと、雨粒も洋服も、区別がつかないのだ。いや、雨に限らず世の中の全てのものがそう言う性質を持っているのだけども。幸いにして、或は不幸にして。
 あくまで予想に過ぎないんだ、全ての事は。数多くの予想を予報を繰り返して間違えないよう正しく対処しようとする、そう言う人たちはとても美しくて強くて、どこか美しく整えられた建築を連想させる。僕? やめてくれ。それならきっと、お似合いなのはホームレスだ。
 だって僕には、帰る場所などないのだから。帰る場所のない人間など、死体と見分けがつかないだろう。顰蹙を買うのが怖くて誰も言わないのだ。真実などそんなものだ。
 雨が強く窓に打ち付けられて死に続けている。なす術もなく、ぐしゃぐしゃにつぶれて。


 「あなたの話が聞きたい」と言う言葉には、どうやって応えたらいいのだろうか。良い答えを知っている人がいたら誰でも良い、僕にそっと耳打ちしてくれないか。
 だけれどもひとつ覚えておいてほしい。最近の僕は本を読む事すら出来ず、何かを考えようとするといつも昔の事が思い出されて酷い気持ちになり、あまつさえ眠気が催されて来て、結局何も考える事が出来ないんだ。それで一体どんな話をしたら良いと言うのだろう。どうやって目の前にいる人の事を楽しませてあげられると言うのだろう。こんな無理難題に応えてくれる人がいたら是非友達になりたい。ああだけどでもきっと、そんなにもいい人と言うのはね、僕となんか友達になってくれるわけがないんだ。

 仕方がないから僕はひとりで話し始めることにする。誰も聞く人のいない深夜のツイキャスのように。壁に向かって、目をつむって、強い酒を横において、僕はひとり話し始めることにする。
 だから音量は、君が自分で調節してくれ。よろしく頼む。
 「こんばんは、黒須です。今日は酷い夜みたいです。ねえ、聞こえますか?」
 

 夏がまだ生きていた頃の話をしよう。それはもう、ずっとずっと昔の物語みたいな気がする。最近はどんなに暖かくても、夏の存在を感じる事は無くなってしまった。いなくなってしまった人間の所有物が淡く透明な像を緩やかに結んでは解いていくみたいに。残り香だけが微かに、その存在を示すかのように。それは全く感情と同じだ。感情は、いつだって遅れてやって来る。
 
 まだ八月だったあの頃はさ、世はなべて事もなし、神は天にいまし、とでも言いたげな平和な時間が流れていたような気がする。世界は圧倒的に夏休みで、自分には何の関係がなくとも世界が3ルクスほど艶やかに粧し込んでいるような焦燥感覚、それが正しいかはわからないけれどその熱と地獄の端みたいな多忙さに追われて僕は何だか幸せな気持ちで毎日を過ごしていたんだ。熱病のけいれん発作なんて言わないでほしい、本当に幸せだったのさ。いままで僕は嘘ばかりついて生きて来たけどこれは本当の話なんだ。

 ある朝、僕は酷く憂鬱な気持ちで職場に向かっていた。憂鬱の理由は現実の酷い巡り合わせのせいもあったが、大部分は僕のせいだった。最低な気分だった。人間と言うのは自分に絶望するのが一番辛いものなのさ。ああだけどあの日ばかりは救われたな。明ける直前の夜が一番暗いなんていう、イエス様もびっくり仰天の妄言を信じちゃうくらいにはね。
 これは僕が東京を気に入っている唯一の美質といってもいいんだが、都心の一等地というのは緑道歩道並木道、レンガを敷き詰めてオシャレに演出されていてね、それが荒んだ心をほどよくやわらげてくれるんだな。人が傷ついて打ちひしがれる事さえこの都市では織り込み済みなのかもしれない。まあ金の無駄遣いと言ってしまえばそれまでなんだけど、何もかもが無駄だというなら生きている事さえ無駄と言う事になってしまう。だからあれはあれで意味が少しでもあるんだ。だって僕はあの日、今後ずっと忘れられないような美しい景色に出会ったのだから。

 駅を降りて喫煙所を抜けて緑道に入ると、お父さんと手をつないだ小さい女の子が向こうから歩いてくるのが見えた。ピンク色のワンピースを着て、赤い靴で、つないだ手をぶんぶん振っていてね、お父さんといるのが楽しくて仕方がないってのが遠くにいる僕にもわかるんだな。
 それでちょっとしたらその子が反対側の歩道を散歩しているシベリアンハスキーを見つけたんだ。なにせシベリアンハスキーってのは目につくからね。大きいし、白いし、強そうで、つまり、優しそうでさ。
 そしたらその子、「おおきい! おおきいいぬ! ねえおとうさんみておおきいいぬだよ!」って身体を揺り動かしながら弾けるような笑顔を振りまきはじめたんだ。これにはびっくりしちゃったな。散歩のひもを握っていたおじさんもニコニコしちゃってさ、すれ違ってもうずいぶんシベリアンハスキーは遠くに行ってしまってるのにその女の子ときたら、歩きながらたびたび身体をよじって犬の方を見てるんだな。子どもというのはこういうところがあるものだから、たまにまいっちゃうよな。

 これがひとりで深夜に見ている映画だったら、僕は間違いなく号泣してただろう。ポテトチップとポップコーンとコーラにまみれて、塩味のする指をしゃぶりながら、すすり泣いてはコーラを飲んで目の奥がツンとする甘い痛みに揺られながら。きっとその日はよく眠れるだろう。次の日の朝の事は考えたくないけどね。僕は美しい映画を見ると決まってその映画が夢に出てくるタイプの人間なんだ。つまり、夢見がちって言うやつなんだろう。まあそれは否定しないよ。でもいいんだ。正義と結婚するような人間には興味がないからね。


 ねえ君には聞こえるだろうか。感情が追いついてくる音が。

 今年の一月、育ての親が死んだ。老衰と言う事になっている。でも現実は酷いもんだった。「この世界では絶望した人間から死んでいく」と、昔の女が言っていた事を思い出しながら僕は彼女の棺に花を手向けていた。めいいっぱいの花を。色とりどりの花を。僕に美しい忠告をしてくれたその女も、もうこの世にはいないのだ。みんなが泣いていた。でもそれは、ただそこに涙があったと言うだけだ。

 言葉だけが、記憶の片隅でかさかさ音を立て続ける。

「あなたのお父さんは本当は作家になりたかったのよ。それも、短編作家に」
「僕には最初から医者になりたかったって言ってたのに」
「そう、でも文才がなかったのよ」
「はは、じゃあ僕に文才がいないのは遺伝ですね」
 父の愛人は僕を見て懐かしそうに笑ってそれから、「さようなら」と言った。
 僕も「さようなら」と答えた。
 とうとう僕も、本当のさようならがわかる人間になってしまったよ。お父さん。

 

 いつまでたってもわからない。僕は何を、話せば良かったのか。

 十月のある夜、LINEがやってきた。頭の良い女の人から。軽いノックの音がするかのような文面だった。「あなたの話が聞きたい、」と。何かの間違いかと思ったね。僕は胸が高鳴ったさ。本当はすぐに電話をかけるべきだったんだと思うよ。なにせ僕はその女の人にシンパシーを感じていたんだから。でも一瞬の後、思いとどまった。僕は酷く泥酔していたし、話せる事など何もない。美しいもの高尚なもの、人の気を引くようなものなんか何処を探しても一つもなく、其処に在るのは陰惨な現実と感情の残骸、或は透明な物語。そして酷くみっともない僕の姿と、そんな下らない話を聞かされて酷く困惑するその人の表情だけだった。
 ああ端的に言うとね、僕はただの「弱虫」だったんだ。それは本当の事だと思うよ。

透明でも愛して

                    

 

   すべては、全くの偶然だった。でも、偶然しか世界には存在しないのだとしたら、もしかしたらすべてのことは必然だったのかもしれない。 
 
 2010年。22歳になった僕が直面したのは、3つの死だった。
 5月。ずっと闘病していた祖父が前立腺ガンで死んだ。最後の言葉は聞き取れなかった。だけど何を言おうとしたのかはすぐにわかった。僕は頷いた。彼の望みを叶えることはおそらくできないだろうけど、僕には頷くことしかできなかった。筋肉がなくなった人間の身体というのは馬鹿みたいに軋む。その感覚を、僕はずっと忘れることが出来ないだろう。三分の一の容積になった彼は断続的な呼吸を繰り返し、静かに、でも確実にその生涯を閉じた。彼が死んだとき、胸をよぎったのは悲しさより、彼が苦しみから解放されたことを喜ぶ感情だった。そして僕も解放されたと思った。なんて薄情な奴なんだと思ったね。心底うんざりしていた。こんなことは二度とごめんだ、とね。だけどそれから、僕は自分の薄情さを何度も突きつけられることになる。
 7月。同じ大学に通う恋人が深夜、自宅マンションから飛び降りて死んだ。遺書はなかった。前日、恋人は僕の家にやってきて食事を作り、セックスをした。とても蒸し暑い夜で、彼女の身体は甘酸っぱい味がした。僕は駅の改札まで自転車を押していって、彼女を送り、大きく手を振ったのを良く覚えている。だけどどうしてもわからない。これから死のうとする人間が、どうしてオリーブオイルを借りていこうというのか。彼女はなんとか一命を取り留めた。だけどその時から、彼女は僕よりも植物に近くなってしまった。僕はどんな顔をしたらいいのかわからず、途方に暮れていた。「面会には、申し訳ないけど二度とこないでほしい」と彼女の父親が僕に言った。「お兄ちゃん、」と恋人の妹が僕のことを呼んだ。僕は一度も振り返らずに、そのまま誰もいない家に戻った。7月31日。
 8月。僕は死ぬことに決めた。だけど車に飛び込むことも、高いところから飛び降りることもできなかった。ネットで手に入れた「死ねる薬」を規定量以上飲んでも、馬鹿みたいに三日間ほど吐き続けるだけで、何も変わらなかった。無い頭を振り絞った末に大学の研究室で劇薬を盗むことを思いついた。我ながら名案だったと思う。だけどなぜか僕のIDから薬品管理室への入室権限が剥奪されていた。助手にそれとなく聞くと、「君はそんなことないと思うけど、近しい人が亡くなった場合、こういう措置をとることになってるんだ。不便だけど我慢してね」と言った。「こちらこそ迷惑をかけてすみません」と僕は申し訳なさそうに微笑して、それから理解した。僕はきっと、死ぬ価値すらない人間なんだと。だから僕は、社会的に自分を殺すことにした。自分でもばかげたことだと思う。だけど、僕はもうこれ以上は生きていくことができないと思った。人というのは、誰かがいてくれるから、生きていけるんだ。
 
 
 
 
 十二月三十一日、僕は書斎の片隅に堆く積み上げられた書籍の山の中からこれらの文章が書かれた紙切れを数枚、発見した。すべての文字は殴り書きの筆記体で書かれており、一瞥したところキリル文字のように思われたが、20分ほどの格闘の後、文字を記号としてではなく、画像として処理すると何故か解読可能であるのを発見した。すべての文章は論文(僕では意味を解するのに困難な数式や、文言で構成されていた)の合間や余白に書かれており、後の方になるにつれて、文字は乱れ、小さく細かくなっていった。
 9月以降の彼の日記を、僕はどうしても見つけることが出来なかった。おそらく彼は死んでしまったのだろう。彼のことは知らないが、もしどこかで出会えたのなら、きっと良き友人になれたのだと思う。なぜだかわからないがそんな気がした。たったいままでそこにいたみたいに。ベランダで煙草をひとり、灰皿に押しつけているみたいに。
 僕は「君の友人に、なりたいんです」と言い、彼は「友人に、許可なんかいらない」と答える「許可が必要なのは、最後のお別れを言うときだけだよ」
 毎晩のように僕たちは、話を交わすだろう。愛について友情について、人生の意味について、美しさについて、悲しみについて、いままで自分を裏切り殺し弄び、罵倒してきたことについて。それは回想が連想を追いかけるように、深夜に橋を架け夜明け前まで、きっと長い話になるだろう。
 でも彼は死んでしまった。きっと死んでしまった。でももしかしたらそれは間違いで、死んでしまっていたのは僕の方なのかもしれなかった。彼がどこかで死んでしまった僕のことを思って、ベランダで煙草を吸っていたのかもしれない。どちらが真実でも関係などなかった。そのことを、きっと僕は知ることが出来ない。
 
 
 僕は僕の中の僕がどこまでが僕でどこからが僕ではないのかということを一年間ずっと考えてきました。その間、多くの親しい人たちが死に、関係性が溶け落ち、友情や親愛、信頼を諦めた振りして過ごさねばならない時期が続きました。そのせいで、僕の中の言葉は殆ど完全に枯れ、夢を記述するために発明された夢の言語だけが、辛うじて僕の言葉となり、僕は半分だけ透明人間になりました。
 あなたたちは一年、何を追いかけてきたのでしょうか。愛や友情、人生の意味、美しさや悲しみ、そして、そして、そして。本当にいろいろなものを追いかけてきたのだと思います。そのことについて、いつか、きっといつか、どこかで出会った僕に教えて下さい。君たちは僕のことが殆ど見えないかもしれません。それでもお願いします。きっと話しかけて下さいね。約束ですよ。
 
 

グッバイ・ハロー

 「ああ、もう朝なのか」というはじまりは、今日が日曜日と言うことを考えるとふさわしいと言えるものではなかったのかもしれません。ベッドの中で数分、じっと何かを考えていると再び眠りに落ちました。すごく長い夢を見ていました。考えていたことも、夢の内容も思い出せませんでした。だけれど、確かに私は夢の世界で死んで、それと同時に目を覚ましたのでした。それだけはわかりました。嫌な気分のまま「時間を無駄にしてしまった」と毒づきながら携帯電話を手に取ると、時間は20分しか経っていなくて、なんというかな。一瞬、ここがどこなのかわからなくなりました。
    
    それからいつもの、筋書き通り。私は吸い込まれるように例の世田谷の隅っこにある喫茶店に向かい、ノートに思いの丈を書き込みました。だけど、どれだけ書いても満たされない。最近は、ずっとこうだ。これもいつもの、筋書き通り。自分の事をいくら自分に尋ねても、何も返ってこない。「そんな下らない話はいいからさ、もっと楽しい話をしようよ」とニッコリ笑って私に話しかけてくる。彼は私を、信用していないみたいだった。そしていよいよ落ち着かなくなった私が見つけたのは飛びきり恋愛中のラブラブ・カポーではなくて、ウェイトレスが間違えて持ってきたガムシロップでした。薄まってアイスティーのような色になったアイスコーヒーにそれをすべて注ぎ込み勢い良く飲み干すと、ノートを閉じて席を立ち、がらがらの快速急行に飛び乗ってうつらうつらしながら海に向かうことにしました。死にかけた夏が、背中を押してくれたのだと思います。

 君が遠い所に行ってしまって1ヶ月、さいきん殊更、こんなことが多いのです。ふとしたときに、茫漠がぴたりと背中に張り付いているのを見つける、夢が枯れてしまったような気になる。こんなことは君と一緒にいるとき、経験したことが無かった。笑顔の賞味期限は、一ヶ月しかないのかもしれません。ずいぶんと短い。参ってしまう。目に見えない形で、私は知らないうちに随分と君に守られていたのだった。それこそ、君の笑顔からこぼれてくる光のつぶてがいつも私の傍にいて、世界のあらゆる暴力を退けてくれていたのかもしれない。だけど光は放たれたのなら、もう後は駆け抜けてゆくしかないのだ。

 いつのまにか眠りに落ちていたCは目覚めると同時に思いだした。もともとCは、こういう人間だったのだ。世界の中から暗闇ばかりを抽出して眺める癖が、ある人間だった。それを自分で何とかしなければいけない時が来ているのかもしれないと、Cは思うようになっていた。「暗闇を見つめることはあっても、暗闇とばかり仲良くしていてはいけない、世界の悲しみを知ることと、世界の悲しみに染まることは違うのだから」Cは真っ暗闇の、すっかり海との境界を喪失した岸辺に辿り着くと一人で寝そべり、誰もいない星空に向かって小さい声で語りかけた。だって、空は、全部つながっているのだからね。幸いなことにあの女性は、必要にして十分な力と方法をCに教えてくれた。もう立ち上がらない理由はなかった。かくしてCはすべての汚辱と戦い、汚辱を受け入れ、そして過去と現在と未来とをつなぐために、立ち上がり扉を開けた。

バレリーナ(1)

   私のお母さんは、バレリーナでした。だから物心つく前からバレエは、私のすべてだったのです。きついレッスンをずっと母から強いられてきました。それはこの世界で当然のことのようでした。私も他の子供たちと同じように淡く透明な涙を流し、歯を食いしばりながらレッスンに通い、家に帰ってからレッスンの復習をする毎日。一年一年と年齢を重ねる度、私たちは大人社会の真似事をして大きくなりました。どうやら母の見立ては正しかったらしく、最初から順調なスタート。神懸かりの幸運に何度も恵まれ、ついに私はトップバレリーナに登り詰めました。逆算すれば才能があったということになるのでしょう。いろんな人たちから羨ましがられました。妬まれました。栄光、とはこういうものなのかと思いました。喜びで胸がいっぱいでした。少し息苦しいくらいに。
 でもそれは、一瞬にして終わりを告げることになりました。ナイトショウのリハーサルに向かう道すがら、通り魔に顔を傷つけられたのです。そして左目の視力を失いました。私はバレエ団を辞めることになりました。私が栄光だと思っていたものは、皮膚一枚の間に存在していたものだったのです。母は、「あなたの人生はもう終わりよ」とずっと泣いていました。

 その事件からしばらくして母は私の家を出て弟と暮らし始めました。「そうか、私の人生はもう終わってしまったのか」と思いました。私は毎日、右目から涙を流して過ごしました。それはなんだか遙かの昔、褪せた幼年時代を思い出させました。なにかをきっかけに、殆どの過去の記憶が失われているのに気づきました。演技の最後に大ポカをした一番最初の発表会、辛かったレッスン、お世話になった先生の顔、ライバルであり戦友であった候補生たちとのやりとり、素晴らしかったお母さんの最後の演技。全てがうすくうすく退色していたのです。私に起こったはずの出来事なのに、それらは全部、まるで他人の話みたいで、点と点とを結びつける線は、どこを探しても見つかりませんでした。私は途方に暮れました。いつから、こんなに空っぽになってしまったのでしょうか。身体が錆び付いていくのがわかりました。バレエは、急速に私の元からいなくなってしまうように感じられました。当時の私は、失った過去の世界を探すように、ただ現実にしがみついていただけなのかもしれません。そんな生活が、二年くらい続きました。
 
 その間、三回死のうとしました(二回が服毒。一回が、飛び込み)。でも、死ねませんでした。運悪く、(本当は運良く、なのでしょうけれど)助かってしまいました。だから私は四度目を試みるつもりだったのです。セーヌ川に架かる橋の上で揺蕩う水面を見下しながら、私は自分の人生に諦めをつけようとしていました。「自分の人生は終わってしまったのだ。なのに私はこうして生きている、だから、もう、終わりにしなければならない」と。最後の言葉を自分にかけて、最後の助走をつけたのに、それなのに飛び降りることが出来ませんでした。私はそのままミラボー橋の欄干を何度かこぶしで殴りつけ、家に帰りました。玄関を抜けて誰もいないリビングにたどり着くと、いまいましく思いながら救急箱の中から包帯を取り出し左手にまきつけようとした、その時です。なぜかはわかりませんが、過去の自分、正確に言うならば14歳の自分が持っていたはずの記憶に接続することが出来たのです。

 選手控え室でお母さんは私の右膝を包帯で締め付けてくれていました。大事な大会を控えて、練習に熱が入りすぎ、関節を痛めてしまったのです。膝はバレリーナにとって生命線でした。彼女は「今回は、絶対に勝たなきゃならないの」と言いました。「あなたのためだから」
 私は下唇を強く噛んで、外からの痛みを伴う強い圧迫と、内から沸き起こる軋みに耐えていました。舞台に降りたち、巻き起こる歓声とライトの煌めきに身体を任せ、瞳をゆっくり閉じて「1、2、3、」と、心の中で数えました。
   大会は、優勝に終わりました。「神様!」とお母さんは言い、私も強く強く感謝の祈りを捧げました。

 いつのまにか私は戻ってきていました。ずたずたになった左目はもうあの日からずっと涸れてしまいましたが、右目から透き通った、塩湖の恵みのような涙がひとすじ、零れて駆け抜けていきました。それはあの頃の、間違いなくあの頃の私が流すはずだった淡く透明な涙でした。そのひとすじが、おぼろげに存在していた点と点とをつないでくれたのかもしれません。はじめて私は、世界と手をつなぐことが出来たのです。
 バレエをするということが、私は私のためになると思っていたのですが、それは誤りでした。それはお母さんの夢だったのです。私の夢では、ありませんでした。胸の奥から少しずつ、何かがせり上がってくるのがわかりました。私はようやく、自分の目で世界を視ることが出来たのです。しっかりとわかりました。終わってしまった人生は、母の中の私の人生なのでした。
 こうして私の人生は始まったのです。そしてこれから書かれることは、その記録です。

すこやかな君に捧ぐ

 授業中、窓から外を見るのが好きだった。学校プールから少し離れた向こうには神社があって、何百年と続く歴史のせいか、生い茂る木々たちも背が高い。ぼーっと目に映る深く濃い緑を読み解こうとしていると、自分が考えた世界の中に吸い込まれていくみたいだった。僕はそこでかけがえのない友人たちに出会い、伝説の武器を手に入れ、世界の歯車を根底から狂わせている「悪」を倒しにいった。強大な敵と戦う度に僕たちはボロボロになったが、宿屋に泊まればどんなに酷い怪我をしていても関係なかった。それと同じ感じかな、立ちふさがるモンスターたちをやっつけても、そいつらはただ「倒される」だけだった。彼らの亡がらを、少なくとも僕らは見なかった。だから結果、誰の命も奪う事なく世界を平和に導いたんだ。何度も、何度もね。それはそれは素晴らしい冒険だったさ。だけどそれは、外から見たらただサボってる風にしか見えないだろうからね。まあよく先生に怒られた。小学校だったのにね。はじめが肝心、というやつなのかな。

 

 ああでも僕はこの話で君に何かをアピールしたいと言うわけじゃないんだ。よくわからない。本当によくわからない。学校に興味がなかったとか、夢だけは壮大だったとか、友人に飢えていたとか、わかりやすく理解されるそういったことじゃないんだ。もっとぜんぜん別の事を話したいんだよ。どこかへ旅に出ようとした時、地図を手元に置いてその未来の風景を想像するみたいなことはよくあるやね、書かれる前の物語たちの鮮やかな手触りみたいなものかな。そう言った話を思い浮かべてほしい。

 

 ただ、何となく当たり前に存在している世界の横に、全く未知の当たり前に存在する筈だった世界が横たわっていること、とか、迷子になってめちゃくちゃに歩いた筈が目的地への最短距離だったりすること、とか。もしくは、僕らはいとも簡単にもう会えなくなってしまうという現実。それは恋人たちに関することだけではなくて。もっと空間的時間的な意味で、とか。

 

 まあでもこんなことは全部終わりって言うわけ。僕はもうあそこに座って、退屈つぶしに窓から外を眺める事はもう出来なくなってしまった。あの世界に入る鍵は、いつのまにかポケットをすり抜けていたよ。もし君がその鍵を何処かで拾ったら、僕に届けるなんて野暮な事はしなくていい。そんな事は気にしないでくれ。でもどこかで君に会う事があったら、その世界の話を是非聞かせてほしいって僕は思う。ほんとにそう思うよ。