思い出せない

 終電は人を動物の群に変えてしまう。僕はシートに座り、眠ったふりをしていた。しかし電車の揺れには敏感に反応した。許容量ぎりぎりのアルコールのせいだった。体の中に木製の樽がすっぽりとはまりこんでいて、沢山の種類のアルコールは皆一様にその場所に集めらているようだった。電車が不規則に動いたり止まったりを繰り返す度に、水面は荒れ、木樽から溢れそうになる。僕はそのたびに眼を固くつむり、木樽を傾けたり揺すったりして水面をなんとか制御しようとしていた。波が収りうっすらと眼を開くと、どこを見たらいいのかがわからなかった。駅に到着する度に人々は押し込められ居場所を奪われた。自分だけのスペースを確保しようと小細工をする者は乗降の際に当然みたいに略奪を受け、皆と等しいものが代わりに差し出されるのだった。それぞれの人間一人分の体積だけしか、所有は認められない。結果として乗客全体が一つの生態系として機能しているように見えた。大移動を行うバッファローの疾駆、精悍な渡り鳥の行軍、統一された鰯の遊泳。

 そんなことを考えながら、フ、と波の周期が早くなっているのに気づいた。傾けたり揺すったりしすぎたせいだろうか、木の樽のどこかに穴があいたのかもしれない。取り返しがつかない頃になって、ようやく間違っていたことに気づく。きっとすべてに通じているんだろう。たとえば、午前三時に、昔つきあっていた恋人から電話がかかってきた結末の後日談、どうしても食べたくて食べてしまったチョコレートたちの行方、セックスフレンドの生まれるところと消えるところ。ああ、本当にどうでもいい。まだ目的の駅にたどり着いていないことしか僕にはわからなかったが、次に停車した駅で降りるつもりでいた。もう限界だった。経路の確認と、動物の群をかき分ける覚悟、そして言い放つべく適当な言葉たちを準備する。すべての思考がEmergencyの暴力に均一化されていく。

 だけど僕はそれを行使しなかった。もっと正確に言うのならば行使することができなかった。駅の目前で車内放送が入る。
「混雑の影響で先の電車が詰まっております」とても酷く良く通るダミ声だった「そのためにしばらくここで停車いたします」
ざわめきが降り始めた雨のように生まれ、いつしかすべての音が混じり合いただの圧力のようになっていた。それからしばらくたったと思う。そして、すぐだった。僕は樽の中身を全部ひっくり返してしまったというわけだった。乗客にとって幸いなのは、僕がとっさに持っていた紙袋の中に吐き出したということだけだった。それはつまり僕にとっての不幸を意味している。中には親しい友人からもらった誕生日プレゼントが入っていた。どれくらい時間が経ったかは覚えていない、僕は自然的に駅のホームにはじき出される格好となり、水道のあるところまでよろよろと歩いていくと蛇口に口を付けて水を飲んだ。ステンレスのざら付きが舌を先から根本まで駆け抜けると、砂埃のひどかった小学校の校庭をおもいだした。グラウンドと呼ぶのが申し訳ないほどのキュートな大きさだった。あのころの僕は、いや僕たちは二限と三限との間に存在する20分休みにサッカーをすることだけを生き甲斐に日々を送っていたのだった。

 サッカーは男だけで行われる神聖な儀式だった。しかし何事にも例外は存在する。今回の事案の唯一の例外は性別であり、男顔負けという事であり、カモシカを思わせる細くて長い足と、兎のような大きな目、頭も良く、そしていつもいい匂いを漂わせているという理由ですべての男子から絶大な恋心を獲得していた女の子に関することだった。
ゆえに男子たちの最大の懸案事項は彼女と同じチームになれるかという事だった。世界は明確に二つに分かれていた。あのころにすべてが決まっていたのかもしれない。僕はいつも負け組に属していた。惨めな気持ちは連鎖反応で昔の感情を引き出してくる。ああ僕はと大の字でプラットフォムに寝ころんでいると駅員二人に抱えられて外に放り出された。「ちっ、ついてねえなあ」が流れていった。「こんな仕事があるなんて駅員になるまで知らなかったよ」も「出世もコネだしな」も「あーあ、いいことないかな」も流れていった。僕は降りたシャッターにもたれかかっていつの間にか眠っていた。