それいぬ

 機械の身体なら、よかった。心臓の音がうるさくて目を覚ますのは、私がうつ伏せにしか眠ることが出来ないから。肉々しい拍動に辟易しながら、両手を支えに、顔をシーツからそっと持ち上げる。急いで口をゆすいで気持ち悪さを洗い流して、身支度を整えて家を出た。リビングをすり抜ける時、テレビの音ががやがやがやがやまとまった球体みたいに聞こえてきて怖くなる。茫々と大画面をのぞき込むお母さまと叔母さまに会釈をにこりとひとつして、私は気づけば靴べらをとっている。顔だけ一瞬こちらにお向けになって、いってらっしゃいと言ったかと思うと、すぐに視線を戻しておしまいになった。なにが楽しいんだろう。いや、逆かもしれない。お父さまがお亡くなりになって、もうそろそろ一年が経つ。
    駅に向かう途中、無性にかなしくなって携帯の連絡先から恋人に電話した。だけれど電話をかけてからどうしたらいいかわからなくなった。なにをはなそう、なにをはなしたらいいんだろうと思いながらプルプルプルプル呼び出し音をそのまま聞いていたけれどいつまで経ってもあの人はお出にならないから、私もお母さまや叔母さまたちと変わらないじゃないかと馬鹿らしくなって力のままに切った。黒電話だったらガチャンとひどい音がしてなんだかせいせいするのに、スマホはただ触ることしかできないからひどい。でもそれが優しいという事なのかもしれなかった。小田急の駅が遠いところに見えてきた。空は、きれいな曇り空をしていた。
 
 さいきん空を見ても、その青さを以前みたいに無条件で愛せなくなった。わざとらしいのだ。きらきら青色に愛想を振りまいている気がするのだ。何にも出来ない曇り空が好き。ああ私もずいぶん、悪くなった。ほかの人たちと同じように、可愛いところを残したまま大人になることが出来なかったのだ。
    去年の七月にお父さまがお亡くなりになってすぐ、葬儀屋の人たちがいらっしゃった。沢山のドライアイスをアイスボックスの中に入れて持ってきて、前沢さんは「葬儀は早い方がいいでしょう、この猛暑じゃ、お父さまもお可哀相です」と言いながらお父さまと白装束とのあいだに何個も何個もドライアイスを詰めていった。もくもく立ち上る淡い煙がすぐに部屋に満ちていって、不思議な気持ちになった。お母さまはその時もリビングにいらっしゃって、お父さまの寝室に入ろうとはしなかった。「パパのお顔を見るのが怖いの」とお一人でひしひしと泣いていらっしゃった。叔母さまと私とが前沢さんのお話を聞いていると、玄関の閉まる音がバタンと響いた。どたどた靴下でフローリングを駆ける音がしたかと思うと従姉妹の花梨ちゃんがすごい形相で部屋に入ってきて「おじちゃん!」とお父さまの首筋に抱きついて身体を撫でさすり、口を大きく開けながら大粒の涙をあちこちに落としていった。なんだか不潔な感じがした。お父さまを見ていると、余りに小さくなってしまったそのお姿に悲しくなって、頬を一筋、涙が抜けていった。おかしいな。お父さまが如何にお痩せになられたのかは、お世話をしていた私が一番良く知っていたはずなのに。涙を拭きながら、呆然というのはこういう事をいうのだろうかと下らない事を考えていると、違和感に気づいた。何かが変なのだ。泣き続ける花梨ちゃんはお父さまのお手をとってさすっている。骨ばって痩けてしまったけれど、未だ豊かで大きなその御手には、時計が無かった。急いで辺りをきょろきょろしていると、あった。叔母さまの左手にぶかぶかの純金ロレックスがびかびかと輝いていた。
    私はめまいを起こしそうだった、いや、事実、起こしていたはずだ。叔母さまと前沢さんの話に割って入って、「どうしてお父さまの時計をしているの?」とさりげなくお話してみたのだけれど、この人はにやにや笑って要領を得ないことを言っている。前沢さんも前沢さんで「まあまあ」とかその場しのぎの対処療法の案配、私は我慢できなくなって、返してください! と声を出したけど自分の思うよりもずっと大きな声が出てびっくりして、それで引っ込みがつかなくなって遅れて涙がぼろぼろと出てきて、後から聞くとあることないこと怒声の形でしゃべり倒したということになるらしく、お母さまが急いで飛んできて私は羽交い締めにされ、どさくさで何回かはたかれ、そうして揉めている間に叔母さまは少し離れたところに花梨ちゃんと一緒になって立っていて「にや」と笑ったのだ。絶対に忘れない。時計は遺品を整理しても出てこなかった。
 
 どこにも行けないと感じている人間だってどこかに行かなくてはならない。存在を消す事なんて出来ないからだ。ゆえに、どこにも行けない人間はひたすら移動を繰り返し、自らの痕跡と記憶を消去しながら彷徨い続ける必要がある。灼熱アイランドシティ、トーキョー。幸いにして、或いは不幸にして新宿の雑踏は国籍や出自、出身や性別をリセットするのに最適である。歌舞伎町の大混雑で身体を清めた私がたどり着いたのは、気の利いた喫茶店でも馴染みのジャズ喫茶でもオサレなカフエでもなく、ちっともおもしろくない系列店の強烈冷房コーヒーショップでした。お金は、ある。でも私たちは貧乏なのだ。身分に釣り合わない家の税金が毎年のしかかってくるのだ。かえしてくれかえしてくれ、頭の中でずっと声が響いている。意味は分からない。でもきっと少しずつ私たちはおかしくなっている。おかしくなっていることにも気づかないくらい、気づけないくらい、おかしくなっている。
 
     200円の格安珈琲は騒音料を含んでいるのであって憂鬱、耳が遠い老人たちの旺盛な自己顕示は性欲の臭いがして陰鬱、なにも悪いことをしているわけではないのに存在がうるさい人々に抑鬱、もういや早く死にたいという脳内大絶叫の最中に恋人から着信アリ躁鬱。
 「もしもし」から始まるエトセトラを超速スピイドで処理して「ごめん寝てた」も「今なにしてる?」も「今日の予定は?」も瞬殺クリアして、「この前言ってた中目黒にお買い物、今日行かない?」を私は発射して、彼は「ごめ、今日は無理、一ヶ月ぶりに父さんに会うんだ。君のこと父さんに話すんだよ」と言い、真面目にニッコリほほえんでいる姿が頭の真ん中に浮かんで、そうして、私はなにも言えなくなった。
    自分もそれからニッコリ笑って「そっかあ、じゃあ仕方ないね」と「うん、ありがとう」と「今日は暖かいよ」を三点張りで大安売りして、すぐに電話を切った。空気の抜けた風船のように、顔がしぼんでいった。すぐにメールで「明日の昼にいこう、だって夏休みは、はじまったばかりだからね」がやってくる。私は、私はなにもしたくなくなってしまった。何もかもがいやになってしまった。これからの事なんか知らない。明日の事なんか知らない。未来なんか知らない。なにも考えたくない。もういやだ。ああでも私は、なんて悪いやつだ。愛して欲しいのに、愛して欲しくてたまらないのに、求めることができないのだ。可愛いところがひとつもない。こんなんだったらパパ活で生きている女の方がずっとマシだ。すっかり忘れていた。どこにも行けないんだ。私は。どこにも行けない。早くここを出ないと、早く忘れないと、早くどこかに、早く早く、早く、早く早く早く早く早く。
 
 ああ、機械の身体なら、よかった。