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Soup(1)

 「ほんとう」みたいなものが透けて見えるときがある。でもほとんどは知らない間に通り過ぎていくんだ。たとえば純粋で危なっかしくて、すぐに折れてしまいそうな七色に光り輝く鉱石。そういったものと健全に向き合うのはひどく難しい。だからだろうか、僕はいつも思い出す。焦点が過剰に絞られたカメラのように。その場所にはクリーム色の街灯を所有する電信柱が立ち、犬が座り込んでいる。灯光の届く範囲では雨の存在が線として証明され、そのほかの部分は全くの暗闇に沈んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

雨の奥に潜り込むこと。

 

 

 

 

 

 

 

 僕は終列車で家に帰ってきたばかりで、おまけに腹ぺこだった。熱した鉄製のフライパンに最後のベーコン二切れを放り込み、きつね色に火が通ってきたところで電話が鳴り始めた。肩と顎で薄いスマートフォンを挟みながら、言い慣れた朝の挨拶のように「もしもし」と言った。煮えたぎるベーコンの上に落とした二つの卵はすでに白く固まりつつあった。事の顛末を聞きとげる意志があることを表明しながら僕はフライパンを傾け、結果的に火の入りすぎたベーコンエッグを丸皿に滑り込ませた。だけれども彼女の言葉の端々に不穏な空気が漂っているのは明確だった。深く打ちのめされた人間に特有のやつだ。言いたいことがありすぎてなにも言えない、というやつだった。

 こういう時にかける言葉というのは、意味が無ければ無いほどいいものなんだ。「こんな時間に、どうかしたの」では落第だ。だから「やあよかったよ、今日は雨の音がやけに怖くてね」みたいな事をまじめな口調で真似たんだが、それでも自分の提出した赤点答案にうんざりしていた。どうしてだろうな。わからない。自信満々でしゃべり出す人が嫌いだったせいかな。それとも恥ずかしそうにさえしていれば許してもらえると思っていたのかな。どっちにしても上品な話じゃないけれど、とにかく作戦は成功したというわけだった。電話の向こうの彼女は「ちょっとナイフとフォークの音がうるさいかもしれないけど」に「ええ」と答えて、「私の話をきいてくれるかしら」と言った。「うん」と僕は答えた。ナイフとフォークのかちゃかちゃ音が遅れてやってきた。話は終わらなかった。ずっとずっと終わらなかった。ずっとずっとずっと。雨と一緒に、ずっと。

 

 すぐに悪い夢だとわかった。なぜなら悪い夢の中で、僕は感情を持たない。どこか小高いところから見下ろしているように限定された視野がはじまりということになるだろう。固定された監視カメラになった気分だ。空には太陽と月が一つずつ同時に存在し、頭上に向けて一眼レフを構える女の子が一人がいるほかに、人間の気配はどこにもなかった。大きな右に曲がりゆく道路があり、それらすべては金色に光り輝く煉瓦で出来ているのだった。そのたくさんのうちの一つの煉瓦を凝視しようとすると、すぐに画像が切り替わる。

 

「ささげー!つつー!」

 僕たちは銀で出来た浴槽に向かい、そろって放尿を始めた。辺りを見回すと高校の同級生だった人たちが小学校の頃の姿になっているのがわかった。一心不乱に一つの動作しかとれないのだ。ヤカンに水を入れるような音が泡立ちはじめ、すべてを埋め尽くしていった。僕たちは、空気の中で簡単におぼれてゆく。

 

 目を覚ますと、時計はすでに一時を示していた。しばらくぼうっと座っていると、窓から差し込んでくる陽光が強くなっていくのがわかる。もう大学の講義のことはどうでも良くなっていた。現実と夢との連結。生まれることから現実が始まり、死ぬことから夢が終わる。その一般方程式に僕も含まれているに違いない。冷蔵庫には当たり前のようになにも入っていない。珈琲を飲もう、軽い食事をとろう。僕は部屋を出た。こんなのこれがはじめてじゃないし、きっとさいごでもない。でもそれなら、ほんとうのはじめてというのは、いつのことだった?

 

 

 たいていの人間にとってのはじまりというのは一度きりだろうが、僕は二度の始まりを持っている。

 僕の家は道路の終点にあった。右に曲がりゆく大きなカーブをもった広く太い道路が家の前に広がっていて、あの頃の僕はその大きな真黒いキャンバスに向かって毎日絵を描いた。朝から晩まで僕は一人で蝋石を握りしめ、描き下ろす度に伝わってくる硬質な手応えに酔いながら前日の夜に覚えた電鉄の姿形を余すことなく再現した。その熱の深さ故に幼稚園になどには登園する気にならなかった。どうやら情熱はいつの間にか生まれて、魂として燃え続けていくものらしい。

 常識的に考えればとんでもない事故だった。あの日、完全な嵐のあとで、道路に描かれたはずの電鉄たちの姿はどこにも見えなかった。すべてが洗い流された真っ黒なキャンバスを前に、僕は内からわき上がってくる透明な興奮を抑えきれずにいた。食事を冗談半分に済ますと、蝋石ホルダーをもって飛び出した。リビングを駆けて玄関をくぐると、突き抜けるような青と雲一つ無い空が眼前に広がり、照り返しを受けたアスファルトが鮮やかに呼んでいるようだった。軒を連ねる家々の庭では三歳児たちがおままごとに興じ、時たま黄色い声を響かせながら、鳥の鳴く音と虫たちの息吹の中に溶けていった。つまり、世界は圧倒的に夏だった。

 三歳児たちのうちの一人がおもむろに立ち上がった。満面の笑みと右手に玩具の包丁を携えて麦藁帽をかぶり、健康なホットケーキのようによく焼けた肌を露出させていた。そしてそれから、ぶんぶと左手を振りかざして僕の名前を呼んだ。あの子だった。片手をあげてそっけなく返事をしたあと、僕はそれを振りきるようにして灼熱に近似されたアスファルトに四つん這いになる。何のためらいもなく第一筆を振り下ろし、無我夢中で蝋石を削り続けた。アブラゼミとミンミンゼミの求愛歌が埋め尽くす夏の空気を皮膚呼吸で感じながら、身体の中心部から小球形に生まれてくる汗を拭った。種族の異なる歌と歌との波長が少しずつ行き違っていくのに従い、空間に濃淡が生まれるのを頭の深いところで知覚しながら、身体はこの世界に確実に存在しているという現実感があった。僕は僕であり僕ではなく、世界は世界であり世界ではなかった。すべてがひとつに溶け合いながら、その無限の構成要素の一つ一つを手に取るように理解できるといった完全な集中がここにはあった。6本の細長い蝋石がそこらへんの石ころと区別の付かなくなる位に削れ果てる頃には、4つの異なる電鉄の顔がよくできた肖像画みたいに配列されていた。僕は立ち上がり、夕陽と向かい合って絵を見下ろした。会心の出来だった。額から滴る汗を腕で拭きながら、大きく伸びをした。空気が上に上にと吸い上げられるような風が一つ吹いて、いろんなものが上空に押し上げられているようだった。身体を包む一枚の薄い皮が汗を潤滑液にしてすりすりと引き離れ、新しく生まれ変わる。そんな気分だった。すべての集中が身体の奥の深いところへと引きつけられていた。だからわからなかったんだろう。背後には大きく右に曲がるカーブを持った道路があって、目の前にある僕の家はその道路の終点だ。だからそこに真黒く巨大な車が猛スピードで突っ込んできたという事に気づかなかったんだ。僕の家はその道路の終点だ。僕は振り返る。ハンドルは廻る。軸をずらされた車輪は斜め60度の角度で僕の左腕から肩口を蹂躙して、延長線上のガードレールはぺしゃんこに凹む。金属の飛び散る音がこだまして黄色い声は叫び声に変質し、家々からは母親たちが血相を変えて飛び出てくる。時代は専業主婦が大量生産されていたあの頃だ。僕はその中で思考を持たない。深いところに沈んでいくようだった。千切れかけた回路が駆けてゆくような明滅の中で、意識はOFFからONへと必死に這い上がろうとする。体のいたるところから温度が逃げ出してゆく。かえしてくれかえしてくれ。しかし喉は震えない。すべてが冷たくなり中心部に追いやられ、末端から感覚が消失してゆく。上の方で沢山の声が聞こえた。でも歌は聞こえない。風の音だけがやけにリアルで、遠くからサイレンの音が近づいてくる。僕はいろいろなものがわからなくなっていた。なにもかもが小さい穴の底に吸い込まれていくようだった。耐え難く甘い眠気に意識を手渡すように。紅茶の中に入れた角砂糖がホロホロと崩れていくように。

 だけど突然誰かが右手を握ったんだ。その瞬間、伝わる体温が電流みたいに全身を駆けめぐり、思わず声が出た。不格好なうめき声だった。完全に冷え切っているはずなのに涙が一筋、頬をあたためていった。この瞬間に僕はつなぎ止められていたのかもしれない。僕は必死に目を開ける。あの子だ。あの子だった。だけど四隅から世界は塗りつぶされていく。わからない、どこにいくのだろう。ここは、深い。ここは、暗い。だから僕は、落ちる。落ちる、落ちる、落ちる。

 およそ72時間後に沢山の金属片を体に埋め込んで僕は意識を回復する。それから一年後、ようやく歩行を許される。さらにそれから19年の歳月を要した。

 あの子と再び出会うまで。


                           (続く)