どうしても零点がとれなかった君に


 やあ久しぶり。すっかり返事を書くのを忘れてしまっていた。許してほしい。色々と大変だったんだ。最愛の恋人と別れたり、唯一の育ての親を亡くしたり、おまけに税金がとんでもないことになりやがってね、もう本当に大変だったんだ。


「君は10年後、ひとりぼっちになるよ」と言ったらどんな顔をするだろう。きっと表面的には何にも気にしていないように振る舞うけれど、凄く落ち込むんだろうな。君のことはよくわかっているつもりさ。これだけは断言しておく。君って奴は10年経ってもほとんど何も変わらないんだ。バカは成長しないってあれ、本当のことだったんだよ。

 

 もちろん良いこともあるさ。君はサイレースを飲まずにすむようになる。ヒルナミンも、アモバンマイスリーも、レキソタンもリチウムも。ベゲタミンは廃盤になるなんて信じられる? 世界は凄いスピードで駆け抜けていくんだ。だから恋人に電話した内容を忘れてしまって泣くこともなくなるよ。薬をたくさん服用するせいで電話の内容をほとんど忘れてしまうのがいまの君の最大の悩みであるはずなんだけど(小さい悩みだね)、君の律儀な恋人は君の願い通り君の電話の内容をノートに書き付けてくれるだろう。だけど気をつけなきゃいけない、君の気を引くため半分は彼女の創作なんだ。でもその瑕疵を差し引いても、君は彼女に感謝すべきだと思う。愛すべきだと思う。ああ君に、一つ良いことを教えてあげる。理由なんかなくても、恋人を抱きしめたってよかったんだよ。

 

 あと言い忘れたけれど親族から紹介してもらったその精神科医はヤブだ。ろくに本も読んでやしないし自分で何かを考えたこともない人間だ。君は二年後そのことを理解して激しく後悔する。それで自分で断薬して大変なことになったり、悪い友人に悪い薬をすすめられて本当に懲りて精神病理学を徹底的に勉強したり、原始仏典を読みあさったりして喜劇と悲劇に往復ビンタされながら何とか君は快復する。ビリヤードみたいな復活劇さ。その執念は大したものだ。愚かでどうしようもない自分のことを君は、それでもどうしても諦めきれないんだ。いま思うと君は、自分のことを強烈に嫌うという方向で自分を愛することしかできなかったのだと思う。君は恥ずかしくて死にたくなるかもしれない。だけれど、人間らしい人間って、案外いないもんなんだぜ。

 

 悲しいお知らせばかりで恐縮なんだが自分が無能な人間だという思いは、自分なんて死んでしまった方がいいんだという思いは、薬を飲まなくなっても何もかわらないんだ。君は、自分が無能な人間なまま誰にも恩を返せずに死んでいくことを酷く酷くおそれていて、それが大量服薬のせいで人間性が壊れてしまっているためだと思っていたのだけど、それは実際のところ間違っていて、君のその無力感は君の心の奥底からやってくるものだったんだよ。君自身の絶望が、ただそのまま君の首を絞めているんだ。がっかりしたかい? 実際、僕もこの件についてはがっかりしているんだ。病気がすっかり治ったら本当にナイスな気分になれると思ってたんだからね。病気が治っても君の絶望感はなくならない。それは君の横に太陽みたいに素晴らしい女性がいてもそうなんだ。


 ああこれは君がまだ知る由もない情報なんだが、君は25歳の冬、ある女の子と強烈な恋に落ちるんだ。友達のホームパーティーで出会うんだよ。料理を全部作り終えた君はつまらなそうに煙草を吸っててさ、本当は誰かと話したいのに誰にも興味はありませんみたいな顔をしてるのを、その子は瞬時に見抜いてしまうんだ。やれやれ、天才ってのはいるもんだ。
「ねえ、あなたがそんなにつまらなそうにしてるから、私、もうここにいるのつまらないの、ね、どこかにいこうよ」ってセリフを聞く前からずっと、君はその子のことが気になってるんだ。なぜなら1キロ先からでもわかるくらいのとんでもない美人だったんだからね。色とりどりの花束の中にあり、他の花が雑草以下にしか見えなくなるような一輪の花。素敵だけれど、ブーケとしては落第だろう。


 その子は背が高くて、絹とガラスを一面にばらまいたみたいに美しい髪の毛と、正しく球形に整えられた真ん丸の瞳を持っていて、君なんかより遙かに頭が良いのに物語の論理構造が理解できなかったり、分数のかけ算が出来ない最高にキュートな人なんだ。でもその認識は本当は誤っていて、理解しないまま何かを受容する特殊な能力の持ち主だったというだけで、そのことを君以外の誰も気づかなかったってことなんだ。君は感動する。彼女が教えてくれる鮮やかな景色に、感情に色があること、心を読み解こうとすることが悪いことではないと初めて知って、そうして二人で過去の君を救うため旅に出ることになる。長い長い旅に。


 だけど物語はそう簡単には進行しないんだ。その子には信じる神様がいて、その神様に君は選ばれないんだよ。君にはもっと別な「いい」女の子と生きていくことが約束されていて、相手の女の子も「いい」男と出会い、それぞれの道をそれぞれの別の相手を連れて使命を果たしあうということになっているらしいんだな。本当はその話を聞いたときにすぐ別れたらよかったんだ。でもなかなか諦められなかった君は、散々迷惑をその子にかけて、結果的に、本当にひとりぼっちになる。そのことについてはあまり話したくないな。なんせ、まだ過去にすらなっていないものだから。わかるだろ、僕はいつだってかさぶたを剥がして血まみれになっちゃうような奴だったじゃないか。


 ああ少し話を変えようか。君はそう遠くない未来に母親と15年ぶりに再会することになるんだけど、驚くだろうな。君の母親の一族は全員が躁鬱病患者なんだからさ。だから君がリチウムを飲んで血液を抜かれるのも何ら不思議ではなかったわけだ。それから自分の母親に性格と顔が似過ぎていることに落ち込むんだ。ああそして、母親が3回目の再婚をしたところだという話になってね、君が大好きだったおじさんはもうこの世にいないって事をそのときにはじめて知るんだ。いいおじさんだったよな、数えるくらいしか会ったこと無かったけど、本当にいい人って言うのはそれだけでわかるもんだ。

 

 いまの君は何というか本当に酷い奴だけれど、君の彼女は本当にいい子だから大事にしてあげてほしい。でも残念ながら君は1年後、Rと別れることになる。君は家に帰って年を越すあらゆる準備を行って(僕の記憶が間違っていなければ君は一人で暮らしているRの家に転がり込んでいたと思う)Rのことを待っているはずだ。そう。12月31日の夜だ。だけれどいつまでたっても帰ってこなくて夜も明けて3日の夜に電話がかかってきて君はRだと思って「ねえ!どうしてたの?!」と思わず大きな声で叫んでしまうんだが受話器の向こうはRのお母さんで、「娘は実家で療養させますからもう二度と関わらないでください」ってそれだけ言われてRとは連絡が取れなくなってしまうんだ。Rはただの不眠症だと君には言っていたとおもうんだが、本当はかなり酷い鬱と解離性障害を患っていたのさ。原因は母親との不和だったんだが、そいつを解決しようと母親と話をしに言ったが最後、その母親に軟禁されて地元の病院に入院することになってしまうんだ。でも君はそんなことを全く知る由もないからね、酷く打ちひしがれて傷の痛みを忘れるために別の傷を作るみたいに女とセックスばかりして心も体もずたずたになって、それからにっちもさっちもいかなくなって死のうとするんだ。ああだけど死ぬことは出来ない。当然の帰結みたいに。これは最近ある女の人が教えてくれたんだが、どうやら僕たちには「使命」というものあってね、そいつがふわふわ浮き輪になってやがるせいで何度三途の川に飛び込んだとしてもだよ、おぼれることすら出来ないらしいんだね。やれやれさ。もっと救ってやらなきゃならない人なんて星の数ほどいるのだろうに、神様ってのは本当に天邪鬼なんだな。

 

 いや、ここまでひどいことをかいておいてなんなんだが僕は君のことが好きだよ。だからせめて最後くらいは正直でいさせてほしい。ごめん、ここに書いてあることは全部嘘だ。本当であることは、ただ一つ本当であることは、この文章が君に届くと言うことは、僕はすでに自殺を完遂させていて、自動転送システムで電子郵便だけが音も心も光もなく君の古ぼけた端末に届けられているという事実だけだ(僕が仮に生き残ってしまったら、文章は届かないはずだ。だって生き残ったあとのいいわけをするのは、とても心苦しいから。その気持ちを君が、知らないはずはない)。

 

 僕は君に未来を変えてくれと懇願するつもりでこんなことを書いているんじゃない。それは、わかってくれるね? そんなことじゃないんだ。僕は君に強くてニューゲーム式の、順風満帆な素晴らしき日々を過ごしてほしいわけでもない。ただ知ってほしいだけなんだ。なんの意味があるんだ、と君はいうかも知れない。でもそれだけだ。それだけなんだ。君はいままでの自分の人生は全て失敗で、その失敗した人生を何とか取り返そうとしているけれど、してきたけれど、その、君が失敗したと思っている人生だって、君が精一杯生きた時間であることにかわりないのだから。だからどうしろとかそういうことを言うつもりはないんだ。ただ君は生きている。生きていることが何かわからなくてもそれでも生きている。本当はそれで、それだけで満点なんだよ。胸を張れ、誇りを持ちなさい、とは言わない。だけれど、僕は、少なくとも僕は君のことを軽蔑しようとは思わない。それは、本当のことだ。どうやら僕は余計なことを書きすぎたようだ。本当は、ひとこと、たった一言こう書けばよかったのです。「君のこと、ずっと無視してごめんね。絶望しないで。どうか、お元気で」

 

  さよなら

 

  君の名前がピリオドだと知っていたらもっと早く会えたのに